四季の便り
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春!
二十四節気では西洋暦の2月4日(立春)から5月4日(立夏の前日)までが春です。実際の季節は、地球が温まるのに時間を必要としますから、一ヶ月程度遅れることにはなりますが。
立春というのは太陽が地球にたいして黄径315度に達するときで、二十四節気では新しい年の初め(一月一日)です。八十八夜とか二百十日というのは、この日を起算日にして数えています。年回りの吉凶を占う九星術や九曜星でも立春から新しい年が始まります。年賀状に「賀春」とか、「初春の・・・」とか書くのはここから来ているのでしょう。二十四節気は地球と太陽の相対的な位置関係によって定められていますから、現在世界的に普及している西洋暦(グレゴリオ暦)よりも年の変り目(正月元日の設定)が合理的といえます。
西洋暦の2月18日は雨水、3月5日は啓蟄(二月一日)、3月20日は春分(昼と夜の長さがほぼ同じ、春の彼岸の中日)、4月5日は清明(三月一日)、4月20日は穀雨となっています。5月4日(三月三十日)は春の季節(三ヶ月)の最後の日で、節分(季節を分ける日)です。もともと節分は季節の変り目として年に4回ありましたが、現在では冬から春への年の変り目の2月3日(西洋暦)だけが節分として残っています。
明法道場がある東京、両国の地は隅田川のすぐ東側に位置しており、道場の近くには幕末に活躍した幕臣、勝海舟の生家のあった場所などもあります。現在、小公園(両国公園)になっていて、3月下旬から4月上旬にかけては桜がきれいです。
両国から2キロメ-トルほど北西に行くと、上野公園が桜の名所として有名です。東叡山寛永寺(天台宗の関東総本山、本尊は薬師如来)や西郷隆盛の像、恩賜上野動物園や東京国立博物館などもあります。
上野公園の近くにはアメ横として知られる商店街があり、その一角に摩利支天を祀る妙宣山徳大寺(日蓮宗)があります。境内には、生前、摩利支天を信仰したと伝えられる日蓮聖人の立像などもあります。日蓮上人は、現在、神様として神界にいますが、明法道場開創者の紫雲院明法大徳様生前に下がられたことがあります。
夏!
二十四節気では西洋暦の5月5日(立夏)から8月6日(立秋の前日)までが夏です。実際の季節は、地球が暖まるのに時間を必要としますから、一ヶ月程度遅れることにはなりますが。
西洋暦の5月21日は小満、6月5日は芒種(五月一日)、6月21日は夏至(一年中で最も昼間の長い日)、7月7日は小暑(六月一日)、7月23日は大暑となっています。8月6日(六月三十一日)は夏の季節(三ヶ月)の最後の日で、節分(季節を分ける日)です。現在では冬から春への年の変わり目の2月3日(西洋暦)だけが節分として残っていますが、もともと節分は季節の変わり目として年に4回あります。
7月7日は七夕、7月13~16日は盂蘭盆会(お盆)ですが、昔は旧暦(太陽太陰暦)ですから、現在の西洋暦より1ヶ月前後遅い時期でした。盂蘭盆会の由来は盂蘭盆経(偽経説あり)に説かれていますが、春秋の彼岸とともに、亡き先祖をしのぶ一つの時期だと考えれば良いでしょう。なお、盂蘭盆そのものは7月15日です。
初夏の時期は、明法道場がある東京、両国の地にもさわやかな風が流れる季節となりますが、夏本番となれば、コンクリ-トの照り返しや都内特有の暑さに閉口させられるようになります。
両国には忠臣蔵で有名な吉良邸跡(小公園)や勝海舟生誕地(両国公園)、芥川龍之介ゆかりの土地や葛飾北斎生誕地などがあります。また、江戸時代からの史跡だけではなく、両国国技館や江戸東京博物館などもあります。新緑の時期には散歩のコ-スとして、一見の価値はあるでしょう。
両国から隅田川に沿って2キロメ-トルほど北上すると、多くの外国人客に人気の浅草(あさくさ)、浅草寺(せんそうじ)があります。
推古天皇36年(628年)3月18日といいますから、1,400年近く昔のことになりますが、檜前浜成、竹成(ひのくまのはまなり、たけなり)という漁師の兄弟が隅田川で漁をしていたとき、仏像が網にかかったと伝えられています。その仏像を当時の文化人であった土師真中知(はじのまつち)に見せると、聖観世音菩薩像であったため、土師真中知は僧となり、自宅を寺にして祀ったのが浅草寺の起こりだと言われています。
浅草寺ゆかりのその三人を後の時代に祀ったのが浅草寺東側に隣接する浅草神社(あさくさじんじゃ)で、三社様とも呼ばれています。明治までは三社権現社、明治元年に三社明神社。浅草神社と改称されたのは明治6年です。西洋暦の5月下旬に行われる三社祭りは江戸三大祭りの一つに数えられ、毎年、大変な賑わいを見せています。江戸三大祭りとは、幕命による天下祭りとしての赤坂山王祭りと神田明神祭りに加えて、浅草三社祭りがあげられたり、深川八幡祭りであったり、根津神社の祭りが数えられたりするようです。
西洋暦7月下旬に開催される隅田川花火大会の打ち上げ場所も、浅草地区の隅田川上に設営されます。
秋!
二十四節気では西洋暦の8月7日(立秋)から11月6日(立冬の前日)までが秋です。実際の季節は、地球の温度変化に時間を必要としますから、一ヶ月程度遅れることにはなりますが。(ただし、二十四節気の日は、年によって西洋暦の日付けが一日異なることがあります)
立秋というのは太陽が地球にたいして黄径135度に達するときで、二十四節気では秋の初め(七月一日)に当たります。まだまだ暑い盛りですが、1~2週間もすれば暑さも下り坂になり、海の波の様子なども違ってきます。ちなみに、暑中見舞いは立秋までの半月余りの土用の間で、立秋以後は残暑見舞いとなります。
西洋暦の8月23日は処暑、9月7日は白露(八月一日)、9月23日は秋分(昼と夜の長さがほぼ同じ。秋の彼岸の中日)、10月8日は寒露(九月一日)、10月23日は霜降となっています。11月6日(九月三十日)は秋の季節(三ヶ月)の最後の日で、節分(季節を分ける日)です。現在では冬から春への年の変わり目の2月3日(西洋暦)だけが節分として残っていますが、もともと節分は季節の変わり目として年に4回あります。
また、西洋暦の8月13~16日は月遅れ盆。9月1日は二百十日(立春から数えて210日目)、日本列島は台風のシ-ズンです。さらに、9月9日は重陽の節句(本来は太陽太陰暦)、この日に宮中で観菊の宴が催されたことから、菊の節句とも呼ばれています。
明法道場がある東京、両国の地は大川(隅田川のこと)の東側に位置しており、大川に沿って1~2キロメ-トルほど南に下れば、作家の池波正太郎や山本一力の時代物の舞台に登場する深川地区があります。現在では都営地下鉄大江戸線で両国駅から1~3駅程度のところです。
深川地区には、江戸時代から深川八幡と永代寺(と後に、深川不動堂)があり、参詣者でにぎわってきました。深川という地名は、江戸時代初期に湿地帯であった深川北部(現在の小名木川北側)を開発した深川八郎衛門(摂津の国の人)の姓から名付けられたと伝えられています。
深川八幡は江戸最大の八幡様と言われ、寛永4年(1627年)の創建、祭神は応神天皇ほか8柱の神々様です。正式には富岡八幡宮といいます。江戸勧進相撲発祥の地として有名で、境内に横綱力士碑があります。また、江戸時代後期に幕命で日本全国の沿岸を測量して回り、日本で最初の実測地図(大日本沿海輿地全図)を完成した伊能忠敬(1745~1818年)が近くに居住していて、測量旅行出発に当たって参拝していたとのことで、境内には伊能忠敬像も建立されています。参道の両脇には、享保12年(1727年)8月に海邊大工町(当時の地名。現在の清澄一~二丁目辺り)の氏子によって献納された一対の狛犬が、300年近くの風雪に耐えて、現在も静かに鎮座しています。八幡宮の祭礼は深川祭り(別名、水掛祭り)として、江戸三大祭りの一つに数えられることがあります。
永代寺は富岡八幡宮の別当寺(神社の経営管理を行った寺)として、長盛上人(僧侶)によって建立されました。長盛上人は、当時、深川南部の小島であった永代島の砂洲一帯を埋め立てて広げ、幕府に寄進して富岡八幡宮と永代寺の建立許可を得ました。埋め立ての成功を願った上人が、横浜の富岡にある浪除八幡の分霊を祀ったのがそもそもの富岡八幡宮の始まりであると言われています。明治政府の神仏分離政策で永代寺は八幡宮から分離され、廃寺になってしまいます(現在の深川公園は元境内地)が、明治29年(1896年)に永代寺の塔頭であった吉祥院聖天堂が永代寺の名称を継いで現在に至っています。ちなみに、赤穂浪士が討ち入り成功後、品川の泉岳寺への道として渡った永代橋は、元禄11年(1698年)に日本橋地区と深川(南部)地区とを結ぶ橋として架けられた木造橋で、当時、大川三大橋(他の二橋は新大橋と両国橋)の一つに数えられていました。現在の永代橋の北側(上流)150メ-トルくらいの場所に架かっていました。
深川不動堂は正式には成田山東京別院深川不動堂といいます。元禄時代の江戸の不動尊信仰の広まりに応えて、元禄16年(1703年)4月に成田山新勝寺の本尊、不動明王が永代寺境内(現在地付近)ではじめて出張開帳(江戸出開帳)されたのがその起りです。明治2年(1869年)になって深川不動堂の名称が認められ、明治14年(1881年)に最初の本堂が完成しています。本堂は関東大震災と第二次世界大戦の二度にわたって焼失しましたが、ご本尊は焼失を免れて現在の不動堂に祀られています。
冬!
二十四節気では西洋暦の11月7日(立冬)から2月3日(節分、立春の前日)までが冬です。実際の季節は、地球の温度変化に時間を必要としますから、一ヶ月程度遅れることにはなりますが。
立冬というのは太陽が地球にたいして黄径225度に達するときで、二十四節気の冬の初め(十月一日)に当たります。そろそろ日の落ちるのも早くなり、朝夕に寒さが加わってくる時期です。
西洋暦の11月22日は小雪、12月7日は大雪(十一月一日)、12月22日は冬至(一年中で最も昼間が短い日)、1月5日は小寒(十二月一日)、1月20日は大寒となっています。2月3日(十二月三十日)は冬の季節(三ヶ月)の最後の日で、節分(季節を分ける日)です。二十四節気で区分される一年の最後の日(大晦日)です。
明法道場がある東京、両国の地は隅田川のすぐ東側に位置しており、かって本所松坂町と言われた地域を含む一帯(現在でも警察署名は本所署です)で、近くには赤穂浪士が討ち入りをした吉良上野介義央邸跡地の記念公園(敷地の一部)や、無縁寺として有名な回向院、相撲の両国国技館などがあります。
赤穂事件は直後から歌舞伎や芝居になり、現在も12月になると映画などが放映されますが、当時の暦は旧暦(太陽太陰暦)ですから、実際の討ち入りの時期は西洋暦の1月中旬ころです。現在よりも寒かった時代のそのころの江戸の雪は、特に珍しいこともなかったでしょう。歌舞伎や映画の赤穂事件はさまざまに脚色されていて、必ずしも実録ではありません。事実がどうであったかの研究はさまざまになされており、最大の疑問はなぜ勅使饗応役(二度目)であった浅野内匠頭長矩が江戸城内で抜刀して吉良上野介に切りつけた(1701年)かということですが、今に至るもよく分かっていません。一次資料に基づいて書かれた「忠臣蔵 討ち入りを支えた八人の証言」(中島康夫著、青春出版社)には、赤穂事件についてのいくつかの興味深い話が紹介されています。一方、領地の三河吉良庄(愛知県)では名君であったと伝えられる吉良上野介の立場から書かれた「吉良の言い分」(岳真也著、小学館文庫)という小説などもあります。現在、吉良邸跡記念公園前の通りでは、 吉良祭(と元禄市、西洋暦12月中旬の土、日)と義士祭(西洋暦12月14日)の両方が行われています
当時の吉良邸横の回向院は、明暦の大火(1657年3月、振袖火事とも言う。犠牲者10万人以上)で死亡した多数の身元不明者を葬って供養した「万人塚」をもとに開創された浄土宗の寺院ですが、その後も多くの無縁仏の寺として知られています。境内には鼠小僧次郎吉の墓などもあり、ペット供養でも有名です。赤穂浪士が討ち入り直後の集合場所に考えていたようですが、僧侶らが恐れて寺内に入れなかったため、浪士は両国橋東詰めから隅田川に沿って南下し、永代橋を渡って品川の泉岳寺へ向ったと伝えられています。天明元年(1781年)からは勧進相撲が境内で行われるようになり、明治42年(1909年)の(旧)両国国技館設立へとつながっていきます。戦後、(旧)両国国技館が進駐米軍によって接収されたため、相撲興行は蔵前国技館へ移っていましたが、昭和60年(1985年)に現在の両国国技館が建設されました。
両国界隈には多くの相撲部屋や相撲に関するさまざまな記念物がありますが、相撲の神様としての野見宿禰を祀っている神社もあります(墨田区亀沢2丁目)。日本書紀によると、垂仁天皇7年、出雲の野見宿禰は大和の当摩ノケハヤと戦って蹴り殺したとあります。これが角力(すもう)の最初とされているようですが、どちらかといえば現在のカラテのようなものだったようです。野見宿禰神社は明治17年(1884年)の創建。初代、高砂親方の尽力により元津軽家の屋敷跡に作られた小さな神社ですが、境内には歴代横綱の石碑(二基)が建てられています。
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